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山代温泉の開湯

約一三〇〇年前の神亀二年(七二五)のこと。
全国行脚に出ていた高僧行基は、白山へ信仰登拝に行く途中、山代あたりに紫色にたなびく雲を見ました。
ひきよせられるように向かっていくと、行手の水たまりで羽の傷を癒している一羽の烏がいました。
不思議に思って手を浸すとそれは温泉でした。
行基は里人にこのことを告げ去り、以来、この地に温泉が広まったといいます。
(温泉縁起より)

山代温泉北陸の温泉地の中でも、名湯の呼び名が高い山代温泉。
しかしもともとは田植えの泥を落としたり、稲刈りの後の骨休めをする、近隣の農家や町民の湯治場にしか過ぎませんでした。

法皇直々の指示により、七堂迦藍が建設された薬王院温泉寺は「勅願寺」として人々に崇められるようになりました。
それがきっかけとなり、山代はそれまでの庶民の温泉地から、全国に広く知れ渡る有名な温泉地となったのです。
白山五院の筆頭寺院「薬王院温泉寺のある山代温泉」の名は、都にまで知れ渡りました。
永禄八年五月、傷を負った明智光秀が山代に訪れ、十日間滞在・入湯し、治療にあたったといわれています。


山代温泉「湯の曲輪(ゆのがわ)」とは

山代温泉の湯宿の特徴のひとつは、かなり早い時期に総湯から湯をひいた「内湯」を持っていたことです。
当時は松ノ木をくりぬいたものを配湯管に使っていたため、遠くにまで配湯できませんでした。
そのため総湯をぐるりと囲むように湯宿が建ち並び、山代温泉は発展していきました。
そして、湯を囲む、「湯の側」からの意味より、総湯周辺を「湯の曲輪(ゆのがわ)」と呼ぶようになったのです。

明治・大正時代の山代温泉

山代温泉明治三〇年以来、北陸線の開通と馬車鉄道の完成を機に、山代が大きく変わっていきました。
相次ぐ鉄道開通ラッシュで、それまでなかなか山代に足を運ぶことができなかった湯治客(特に関西の観光客)が、一気に増えていきました。
又、同時に第一次世界大戦の好景気も手伝って、都心からの団体客を多く迎えるようになり、山代はより一層大きく、賑やかで活気に溢れた温泉観光地となったのです。


昭和時代の山代温泉

山代温泉昭和十年頃、内湯合わせて二十数軒だった宿が、二十五年には三十七軒に増えました。
当時の山代町のパンフレットでは「歌麿趣味といわれる湯の町」と歌い、また緑溢れる閑静な地に紅格子の宿が並ぶ様子を「江戸時代の錦絵を見るようだ」とその風情を伝えています。
昭和四十六年、現在の温泉浴殿が完成。堂々とした外観誇る鉄骨の建物で広々としたタイル張りの浴場には大きな丸い湯舟が二つあります。
交通網も整備され、山代温泉へ沢山の人々が訪れるようになりました。


平成時代の山代温泉

山代温泉近年では、木のぬくもりと香りに包まれた「新総湯」、明治時代の総湯を復興させた「古総湯」、温泉散策基地としての「はづちを楽堂」、北大路魯山人が逗留した「魯山人寓居跡・いろは草庵」、古九谷の窯跡を保存した「九谷焼窯跡展示館」など、沢山の文化的な施設を開業させ、沢山の観光客が訪れる観光地へと発展し続けています。